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(みつばちプロジェクト)
 雑穀(あわ、きび、ひえ) 〜岩手県岩泉町〜
みみよりアーカイブ >商品物語 >雑穀

 2004年〜2012年の記事です。内容が古くなっている場合がありますのでご注意下さい。

●今でも雑穀がつくられている岩泉町

岩泉町は、岩手県の東部に広がる町で、東京都23区全部と横浜市を合わせたくらいの広大な面積があります。そのほとんどが、北上高地に位置し、山の中なのですが、少しだけ三陸海岸にも面しています。

東京からだと、東北新幹線で東京から約2時間半。盛岡駅に着き、ほぼ同じ時間、東に向かってバスに乗ると、岩泉町の中心部に到着します。近くには日本三大鍾乳洞のひとつ、「龍泉洞」があります。車だと、盛岡から約2時間でしょうか。
途中、シラカバ林がきれいな早坂高原を通ります。

今回訪れたのは、岩泉町の中でも雑穀の栽培がさかんだという大川という土地。
集落の中心から山の方へ少しのぼると、目指す雑穀の畑がありました。
ふり返ると、北上高地のなだらかな山並みが見え、ほっとする風景が広がっています。

ひえ畑(左)の向こうに、北上高地の山並み。


畑を案内してくれたサキヨばあちゃん。後ろは、収穫間近のアワ畑。

●サキヨばあちゃんの畑

その大川で、アワやヒエなどの雑穀をつくり続けてきたという、サキヨばあちゃんの畑を訪ねたのは、2006年9月。快晴の日でした。

畑にはアワやヒエがたわわに実っていました。
予想以上に背丈が高く、植えられている間隔も狭く、びっしりと生えており、雑穀のもつ力強さを感じました。

山と集落の境目にあるような畑。
きっと、山仕事と畑仕事が一体となった暮らしがされてきたのだろうなあと思いました。
山では、クリやクルミ、山菜やキノコを取ったり…。畑では、雑穀や豆や野菜を育てたり…。

80歳を超えるというサキヨばあちゃんと一緒に畑に立っていると、日本の中心からはたしかに遠い、しかし、人の暮らしの中心はここにある、そんな気がしてしまいました。

“よく来たなあ、東京から…”と感激されていましたが、自分も負けずに感激していたのです。
人に知られようが知られまいが、昔からずーっと受け継がれてきた暮らし…。

雑穀の畑を実際に見てみたいと思って訪れたのですが、それより何より、土地の持つ重み、力に圧倒されていました。自然と共に歩んできた暮らしの、恵みも厳しさも積み重なった時間が、そこにあるように感じたのです。


●代々受け継がれてきたアワ

畑に実っていたアワは、まさに、たわわでした。
アワの穂は想像以上に大きく、頭でっかちだなあと思ったくらいです。

アワには、コメと同じように“モチ”種と“ウルチ”種がありますが、ここでは在来種と表現するのが正解のようです。
自然に交配を繰り返し、その土地や畑に合った、独自の品種に育っていったのだと思います。
一口にアワといっても、いろいろな品種のアワがあるそうで、サキヨばあちゃんの畑でも、穂の色が全く違う、2種類のアワを見ることができました。

なお、商品としての「あわ」、「きび」、「ひえ」は、岩泉町内の、約160人の生産者の方々から集められて袋詰めされています。まぎれもなく、岩泉町産100%です。

びっしりと実ったアワ。穂が頭を垂れています。

人の背丈より高く育っているヒエ。これがウワサの「もじゃっぺ」という岩泉在来の品種。

●復活した美味しいヒエ

もともと岩泉町で広く栽培されていたものの、一時は絶滅しかけたという岩泉在来のヒエの品種、「もじゃっぺ」。“あれは美味しかった”という記憶が人々の中に生きていて、種の発見をきっかけに、今、岩泉町で復活しています。

モチモチしていて美味しいと言われるアワやキビに対して、パサパサしてまずいと言われてしまうヒエ。
日本大学助教授の川手先生に、その原因は、ヒエに含まれるアミロース分の量が多いことによるものだと教えて頂きました。

「もじゃっぺ」は、「軽米在来」や「達磨」といった従来のヒエの品種に比べ、アミロース分が半分程度の約13%であることがわかり、その美味しさを裏付けるような数字も出ています。
正確には“モチ”種のヒエというのは存在しないそうですが、モチヒエともいえる品種だとのこと。

サキヨばあちゃんの畑でも植えられていた「もじゃっぺ」をよく見てみると、“のぎ”と呼ばれるヒゲが、穂からたくさん出ています。普通のヒエには、この“のぎ”がないのだそうです。

この、美味しいといわれる「もじゃっぺ」によって、ヒエのファンも増えることでしょう。


●雑穀を粉にしてくれるバッタ

岩泉で、水バッタといえば、いわば簡易水車のことです。水力を利用して、雑穀などを粉にします。
足踏み式の足踏みバッタというのもあります。

岩泉町議会の副議長をされて、大川地区のリーダー的存在であり、バッタの復活の先頭に立って活躍された、畠山直人さんにお話を伺いました。

畠山さんが子どもの頃は、各戸に1台、バッタがあったそうです。
必要なときに、必要な分だけバッタで搗いて、雑穀や米などを粉にしたとか。
今回復活させたバッタは、お年寄りの記憶をたよりに、皆で協力しながら、4ヶ月くらいかけて完成させたそうです。

「きみだんご」という、タカキビを粉にして、団子にしたお菓子が、岩泉の郷土料理にはありますが、搗きたての粉で、しかもバッタで搗いた粉でつくった「きみだんご」はとても美味しいそうです。
機械で粉にすると、挽くときに発生する熱によって、粉の味が変わってしまいます。
畠山さんは、実際に食べ比べたことがあるそうですが、明らかに味が違ったということです。

粉にしたい穀物を最初に入れてしまえば、あとは、バッタにまかせ、搗きあがった頃を見計らって取りにいけばいい。このバッタでは、1回に4升くらいの穀物が搗けます。米で1日、大麦で4日くらいあれば搗けるそうです。
原油の値段の上下などとはまったく無関係に、バッタンバッタン、ゆっくり搗いていきます。

これからもバッタを増やしていきたいと、畠山さんは話してくれました。

復活した水バッタ(簡易水車)。屋根は杉の皮。材も、すべて地元のものです。

バッタの心臓部。搗き始める前に、おもりのバランスを調整するのが難しいとのこと。

●暮らしの変化

岩泉町内では、昭和40年代頃に大きな変化があったということです。
雑穀をつくらなくなった、バッタも消えていった、電気が小水力発電によって通うようになり…と、それまで脈々と受け継がれてきた自給的な暮らしが、一気に崩れていったそうです。

また、昭和50年代までは林業がさかんで、岩泉の中心の産業として栄えました。ただ、ブナなど、貴重な広葉樹を、どんどん伐採してしまったのが悔やまれます。残しておけば、白神山地にもまさるともおとらない、ブナの森だったということです。

このような変化を見てきて、畠山さんは、雑穀の栽培や、バッタの復活に奔走しました。その技術を持っているお年寄りが元気なうちになんとかしないと、技術も知恵も失ってしまうと考えてのことです。

●山地酪農と地大根

岩泉といえば、短角牛も有名ですが、今回、日本大学助教授の川手先生や、(株)岩泉産業開発の方々にご案内頂き、山地酪農(やまちらくのう)を実践されている、2軒の酪農家も訪ねることができました。

岩泉町の北隣、田野畑村に位置し、どちらも、山の中の、起伏の激しい、広大な牧場に牛が放牧されていました。
欧米の牧草に比べ、丈の短い、日本在来のシバを主に利用し、循環型の酪農が営まれています。

この日本在来のシバ、「野芝」(のしば)がすぐれもので、日本の土地に合っているせいか、繁殖力、再生力が、とても強いのだそうです。牛も好んで食べるし、他の草との混生を妨げず、共生できるのだそうです。
おかげで、農薬も化学肥料も一切不要。
日本の酪農のあるべき姿、そして、文化を見た気がしました。
川手先生によると、もともと「牧」(まき)と呼ばれるようなところには、野芝が生えていたそうです。

1haあたり、せいぜい1~2頭というゆったりした放牧で、健康な牛が育ち、その牛から得られる恵みも、また健康的です。
頂いた牛乳やヨーグルトの美味しかったこと…。

また、岩泉町の安家(あっか)地区というところでは、安家地大根という、赤くて辛味のある大根を栽培している畑も見学させて頂きました。
88歳になるという長十郎さんのご夫妻によって守られてきた畑です。
この安家地大根と、ヒエを交互に栽培して、連作を避けるようにしているとのことでした。

岩泉町には、雑穀の栽培を始め、今の日本では貴重になってしまった伝統的な暮らし、自給的な暮らし、そしてそのための知恵や技術が、なんとか、まだ残っていました。
復活させようという志をもった方々にもお会いできました。
しかし同時に、何もしなければ、失われていく一方であるということも、強く感じました。

霧がかかってきて、幻想的な風景となりました。牛たちが、バリバリと、野芝(のしば)をはむ音が聞こえてきます。

     

 

 

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